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氷川女体神社磐船祭祀遺跡 [さいたま]

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○氷川女体神社磐船祭 祭祀遺跡
 さいたま市緑区見沼5381

 近世の祭祀遺跡、見沼御舟祭りは千年以上続けられていたといわれる。

祭祀 について

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 享保十二年見沼の干拓により、古より行われていた氷川女體神社の御手洗瀬である見沼に神輿を渡御させる「御船祭」の神事は、中止せざるを得なくなりました。 そこで、神事の形態を改め、鳥居下の突端に柄鏡形の土壇を設け・その周囲に池を配し・祭祀の場としました。 享保十四年九月八日、名称を「磐船祭」として復活しましたが、江戸時代の終わりとともに祭も廃止となりました。

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○女体社と男体社
 古く大宮男体社と三室女体社は一体(一宮氷川社)であり、見沼は共通の神池であった。 中世に入り神主家が分裂て両社が独立し、見沼は女体社の支配下となった。 そしては、見沼は女体社の神沼「御沼」であり御手洗瀬とよばれていた。 ※神沼なので魚猟禁止、魚捕るなら入漁料・後に運上金が必要だった。
※大牧氷川女体神社・附島氷川女体神社などは、三室女体社から分霊したといわれる。

○御舟祭り
 鳥居から3kmほど離れた島の真中に御旅所「四本竹」を設け、神霊が御輿(渡幸舟)で渡幸し沼神祭りが行われた。 江戸時代になると、天下泰平・将軍家武運長久が祈祷されるようになった。 
※「大宮氷川社男神須佐之男が三室女神奇稲田姫のもとへ通う神事」が源との説があるる。

○新田開発
 享保十二年八代将軍吉宗のもと、井沢弥惣兵衛為永らによる干拓が始まった。 しかしながら見沼は氷川社の領分であり、協議の末「干拓新田の一割を社に寄進・祭祀場新設」することとなった。 寛永六年伊奈忠治が八丁堤防を築き、人工沼となった。 
※上流の村々では水没が防げるので干拓賛成、下流の村々では水不足となるので干拓反対でもあった。


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