与野伝説
さいたま市中央区(旧与野市)
○安養山円乗院(円乗院・安養山西念寺)
さいたま市中央区本町西1-13-10
古く浦和道場から移転。 賢明法印が中興開山、江戸時代は幕府から寺量十五石の御朱印地をもらっていた。
伝説 について
○円乗院・あみだ様とヘビ
喉の痛みに悩まされた歴代の住職、ある時夢の中に白衣の老人が現れ・物置の長持を見るように告げた。 物置に放置された長持、その中には阿弥陀様・その首には白蛇が巻きついて死んでいた。 そしては、阿弥陀様を本堂に奉り・白蛇は木箱に納められ..
身代り地蔵
○宝泉寺・身代り地蔵(集会所内)
川口市神戸303付近
かつて、地蔵尊・不動尊・大師を奉った。 宝泉寺本堂は現存しない。(墓地は残ってる)
※「宝泉寺(無住)の僧侶・小坊主が悪病・苦行の身代わりになった」との伝説がある。
身代伝説 について
西福寺
○西福寺
東京都北区豊島2-14-1、03-3911-2266
東京都北区 について
○西福寺
今から約1200年前の四十五代聖武天皇の時代に創建(行基の開山との説もある)されたと伝えられている。 本尊の阿弥陀如来は行基の作(大戦での焼失後、同じ姿・同じ高さの丈六(5m)・極彩色金箔塗の露天大仏として建立)で豊島清光(清元)との間に伝わる江戸六阿弥陀第一番の札所として広く信仰を集め、関東一円から年 十方人もの参旨者がお参りしたと伝えられている。
身代わり地蔵のお話・..
宮代町
グンマの昔:熊野神社
○日本武尊と熊野神社
陸奥国・蝦夷を平定し上野国から碓氷峠にさしかかった日本武尊は、自分の身代わりとなり海に身を投じた妻の弟橘姫を偲び「ああ、あづまやはや」と嘆いた。
ある時、日本武尊が碓氷峠にさしかかると、悪神が城鹿に姿を変え襲ってきた。 そこでニンニクを投げつけると城鹿の目に当たり痛みに逃げ去った。 それ以来、この峠をとおる者はニンニクを持ち歩くと悪神が近づかないとされる。
またあるとき、深い霧に包まれたとき数羽の八咫烏が現れ、くわえたナギの葉をおとして道案内し..
桐生・金山城伝説
○根本山には黒兵衛天狗が住んでいた。 火除け・盗賊除けに霊験あらたかとされ、伝説も多くある。 根本神社は大山祇命を祀る、里宮には1578年開山の大正院。
○桐生地方の足利氏は、藤原秀郷系と八幡太郎義家系の二系統ある。
○桐生落城
領主・桐生大炊介助綱は人望厚かったが子供が無く佐野家から養子(親綱)もらったが折り合い悪く、ついには由良成重らに攻め入られた。 そして親綱が奥方・姫達と桐生川の大滝を岩から岩へと飛び跳ねて逃げたので「跳滝」とよばれる。
※このとき「宝の入った瓶」三..
前橋伝説(1)
○法燈寺は堂塔伽藍が建つ度に焼けたので、杉の坊の天狗により再建されたがやはり焼けて護摩堂だけ残った。(法は水が去る・燈は火が登る、と書くので凶)
○青梨子・井戸八幡宮は竜巻によってでき、眼病に効くといわれた。 井戸には白蛇が住むと言われるが、覗くと目がつぶれるらしい。
○朝に前橋を出ると、暗くなるころ到着するので「あさくら(朝倉)」。
○蹄石は、八幡太郎義家が八幡山へと馬で飛んだ時の足跡。
○旦那坂には、追いはぎがでた。 そして言った「旦那・旦那」と。
○おこり仏、大きい方をさわると腹..
碓氷・熊野神社
上越県境碓氷峠に建つ熊野神社、参道石段本殿の東半分が上野・西半分が信濃。
○日本武尊と熊野神社
陸奥国・蝦夷を平定し上野国から碓氷峠にさしかかった日本武尊は、自分の身代わりとなり海に身を投じた妻の弟橘姫を偲び「ああ、あづまやはや」と嘆いた。
ある時、日本武尊が碓氷峠にさしかかると、悪神が城鹿に姿を変え襲ってきた。 そこでニンニクを投げつけると城鹿の目に当たり痛みに逃げ去った。 それ以来、この峠をとおる者はニンニクを持ち歩くと悪神が近づかないとされる。
またあるとき、..
群馬での暮らし:縁切・縁結厠
○満徳寺・縁切寺(群馬県太田市徳川町385-1)
白が縁切り用・黒が縁結び用である。 縁切札・縁結札に願いをこめて、それぞれに流していただき、白黒をはっきりさせて、自分の人生を一歩前進させていただきたいとの意味がこめられている。
☆グンマが世界に誇るのが縁切寺。 縁切寺は世界に二つ、東慶寺(鎌倉)と満徳寺。
○満徳寺
満徳寺が幕府公認の駆け込み寺となった理由は、
①もともと新田氏と関わりが深かった。(新田義季開基、義季の娘浄念尼開山、住職は新田氏系)
②徳川家康が、徳川発祥の..
群馬での暮らし:身代わり観音
《グンマを話そう》
○身代わり観音
千四百年ほど前、聖徳太子は聖観音をつくりその力により日本に攻めてきた新羅軍を破った。 戦いが終わり、その観音像を見ると刀や矢の傷だらけであったので「身がわり観音」とよぱれ、「とどまりたい地にいったら重くなる」と言われていた。
1240年、津戸為守が関東に向かう途中上野国緑埜郡鮭塚までくると急に重たくなったので、寺を建て観音像を納めた。 この観音像が藤岡山尊願院一行寺に残されていると言われている。