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普門院 メモ [さいたま]

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☆小栗上野介
 江戸時代末期の幕臣・勘定奉行・江戸町奉行・外国奉行、通称は又一。 安政六年従五位下豊後守に叙任。 文久三年上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。 三河小栗氏第十二代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。

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Fumonin_kouzuke2(小栗上野介忠順公と大猷和尚との決別の図)


☆小栗上野介忠順
 激動の幕末、最後まで官軍との徹底抗戦を主張した小栗上野介だが、その獄門首は、大宮の古刹・大成山普門院に葬られている。 小栗家十二代目の旗本上野介は、文政十年に江戸に生まれ、安政四年に御使番となり二千五百石の高禄となった。 万延元年には、日米通商修好条約批准使節として派米されている。 その後は、大老井伊直弼に目をかけられ、陸軍・軍艦・勘定・海軍の各奉行を歴任、幕臣随一の人物として幕府軍制の建て直しに活躍した。
 いよいよ幕府が窮地に追い込まれてからも、大勢にさからい抗戦一本槍を貫いたが、これも「徳川の御為」という上野介の所信から出たものであろう。 しかし、運命をともにしたいと考えていた徳川慶喜の恭順表明で望みを断たれ、慶應四年には新政府に追われて所領の上州権田村へ引き揚げることとなった。 途中、同家先祖の墓がある普門院に立ち寄り、大猷和尚に我が身の万一のことを憂慮・永代供養料五十両を納めて立ち去った。 この時、伝来の具足・信国の名槍・同家始祖・忠政の画像も同時に和尚に託していた。

Fumonin_kouzukec(普門院を去る上野介忠順)


 だが、上野介の予感は不幸に的中「農兵を要請し謀反を企てようとしている」と、官軍に主従ともども捕らえられ、慶応四年四月六日逆賊として倉渕村烏川烏川原で斬刑となり首はさらされた。 時に四十二歳だった。 いなかへ隠棲後も、「誠忠無二の徳川武士」として最後まで何らかのチャンスを狙っていたのかもしれない。 この時の刑で、命拾いをした小姓に銀之介という土屋村(現大宮市土屋)出身の者がいた。
 銀之介は、夜中に主人上野介の首を抱み持ち、翌日普門院の大猷和尚の元まで持ち帰っている。 和尚も変わりはてた殿様の姿にがく然としたが、主戦派の“ドン”とあって墓標もはばかり、ただ丸石を置いただけの粗末な墓(大宮市指定史跡)として残すも、命がけだったであろう。 間もなくこの大猷和尚も何者かに殺害されるが、上野介の「首」にかかわっていたことで、新政府が裏で糸を引いていたかどうかは判明していない。

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Oguritadamasac(村垣淡路守、新見豊前守、小栗豊後守)



☆文化財調査報告書
 普門院は旗本小栗氏本家・同分家(信由家)・及び同分家(信友家)、三家の菩提寺である。 この関係は江戸時代初頭小栗忠政が大成村五百五十石の領主として同村を釆地としたことに始まる。 元和二年忠政歿後はその二男信由が大成村を分知され、その後その後裔が襲封(寛政重修諸家譜)大政奉還に至っている。

 普門院には又一忠政と夫人・その子息の墓三基(小栗氏本家)・仁右衛門信由及びその累代の墓二十四基(同分家)・又兵衛信友と夫人の墓二基(同分家)及び上野介忠順(小栗家本家二十代)の墓一基、合計三十基が整然と現存している。 小栗一族は松平の後裔で、徳川将軍家とは関係の深い由緒ある家柄である。

◯同家四代忠政は姉川の戦いに功あって、家康から「又々一番の功名」とのことから又一の名と、信国の名鎗(この鎗は幕末に上野介が普門院にあづける)をもらい、その後の歴戦に活躍、上野国邑楽・多胡・武蔵国足立郡及び下総国矢作領の内にて釆地二千五百五十石を与えられた高名の旗本である。

◯信由は忠政の二男で大阪夏の陣に功あって一家をおこし、父の采地大成村五百五十石を分知され、さらに寛永二年上総国で二百石を加増さ七百五十石の旗本となっている。 采地大成村は信由の息の二代信政、三代の信行の襲封途中信行の代、すなわち延宝元年に天領となり、明和五年五代信霽の時再び小栗家の采地に復し、以後六代信崇、七代信厚、八代信任、九代信将これを襲封、明治元年武蔵知県事管轄となっている。

◯信友は忠政の三男で別に一家をおこし、下総国で五百三十石を知行している。

◯上野介忠順は小栗氏本家二十代で万延元年日米通商修好条約批准使節として渡米、帰朝後外国奉行・江戸町奉行・歩兵奉行・軍艦奉行・勘定奉行を歴任した幕末史上特筆される英傑である。  普門院と小栗家の関係は、寛政重修諸家譜などの文献、同寺の墓石・過去帳・古文書諸記録・位牌などから明確に把握でき、これらによれば同家一族がいかに同寺を厚く崇敬し、香華を絶やさなかったが窺われる。
 前記三十基の墓の内、上野介忠順の墓については、それがはたして首塚であるか否かには諸説あり、史料による確証はないが、ともかく上野介と同寺の関係をみれば、その墓が同寺に存在することもまた了とされる。 かように累代領主の墓がその菩提寺に整然と存在することは市内にも稀で、領主と菩提寺の関係を知る好箇の史料のみならず、当市の歴史解明上貴重な史跡と思われ、従ってとくに事績ある者のみを取り上げて指定するより、むしろ三十基を一括して、これを大成領主小栗忠政一族の墓として指定し、ながく史跡として保存する措置を講ずることこそ適切と思われる。

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☆馬喰大尽屋敷・秋葉神社境内(さいたま市西区中釘804)
 明治時代金貸しで冨を築いた男、若い頃は馬喰だったので馬喰大尽とよばれた。 しかし金の力に物言わせたが、好事魔多し・奢る者久しからずで、長続きしせず、一家は村を去った。 荒れ果てた屋敷は災難が続き、敷地跡には使用人達が隠し埋めた小判がうまったままらしい。 

※普門寺和尚が上野介から預かった荷を、この馬喰に横流したとの噂… 


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