水角神社
○富士塚・水角神社
春日部市水角1477
☆水角神社の富士塚
江戸時代後期/1860
塚の表面は玄武岩質溶岩
石碑は輝石安山岩を中心に片麻岩、黒色片岩、玄武岩質溶岩、塩基性安山岩
高さ5.17m・直径約10m、石碑48基
水角神社境内の本殿北西側後方に築造され、塚の登り口には、明治十四年に寄進された手洗石が一基ある。 登山道は入口正面から右側にかけて、九十九折状に設けてある。 石碑の中で一番古い碑は、塚の頂上にある「浅間大神」と刻まれた泥質岩源の片麻岩..
大東の富士塚
瀬崎の富士塚
○小御獄神社・瀬崎の富士塚
草加市瀬崎3-3
( 富士塚 の記事を探す・PC版 )
○瀬崎の冨士行及び富士塚
富士山を信仰する人々で組織された富士講は、各地で独自な展開を見せてきましたが、草加市域では旧瀬崎村で「冨士行」と呼ぶ一連の行為を伝え、今なお受け継がれています。
「冨士行」は、富士山頂で神霊に祈誓を捧げることのほか、地元では元日と七月一日(富士山の山開きの日)は浅間神社の拝殿で、その他の月は社務所で「オツタエ」と呼ぶ富士の神霊を称える唱言..
とうきょう伝説
東京伝説
☆スッテクリョウ、秋川市菅生・
兄弟の太郎と二郎、太郎の白馬を二郎が代掻きに使い喧嘩となり・太郎は殺されてしまった。 太郎は埋葬のさい頭を剃ってなかったので今尚「剃ってくれ」…
☆足立姫と六阿弥陀、足立区扇2・性翁寺
豊島氏に嫁いだ宮城宰相の娘足立姫、不縁となり川に身を投げた。 父は姫の霊を弔うため紀州熊野にて霊木を得、行基が六体の阿弥陀仏と木余如来を彫った。
☆猿仏塚、足立区栗原1・島根小学校前
むかしむくれて農家には利口な猿、ある日家人の留守に赤ん坊を風呂に入れ..
十条富士神社
☆十条富士神社(富士塚)
北区中十条2-14-18
( 富士塚 の画像を検索 )
☆お冨士さん・十条冨士神社大祭
地元では「おふじさん」の名で親しまれています。 江戸時代に富士山にいけなかった庶民たちが冨士塚を築き、富士山に見立て参詣していました。 毎年山開きの日に祭礼が行われ、脇の道路沿いには、露店が立ち並び、多くの人で賑わいます。
☆十条聖観音堂・ 東京都北区上十条3-25-2
☆雪峰院・東京都北区上十条3-25-3..
下新倉氷川八幡神社
熊野神社
○熊野神社
和光市白子2-15-47
10mほどの富士塚(富士山)がある。
( 富士塚 の画像を検索 )
古く熊野神社の池には夫婦竜が棲んでいたが、大喧嘩の末雌竜は池を出て・石神井三宝寺池を目指した。 そこで神社前に馬子がいたので馬に乗り、三宝寺池に着くと代金を払い・池に飛び込んだ。 驚いた馬子は無我夢中で白子に帰り、代金の入った包を開けると三枚の鱗が入っていた。
東沼神社
○東沼神社
川口市差間2-15-45
富士塚 について
富士山(富士講・富士塚)
☆冨士講
富士信仰が流行し、富士参りができない人々のために富士塚・浅間塚ができた。 七月一日に登るのが「初山」。
☆富士山
浅間神は火山の神、浅間は火山を指した言葉だった。 富士山が何度も噴火したことから、浅間神がまつられるようになった。
※かぐや姫が残した不死の薬、帝は天に近い駿河国の頂で焼いた。 これが不死の山、後に富士山。
☆浅間神社参拝図絵馬..
熊野三社
○熊野大権現(熊野神社・熊野三社)
川口市神戸雀田89
熊野様 について
享保八年創設、明治三十九年木曽呂朝日神社に合社、1951月9月復元。 伊邪那岐命・伊邪那美命・菊理姫命を奉る。 二月十六日、五穀豊穣・無病息災を願い「日社講(おびしゃ)」高盛の儀。
○神戸浅間神社
古くは浅間神社があり、社南側には高さ約10m・胎内めぐり約30mの横穴(あほぐら)を有する富士塚があった。(現グリーンセンター見沼用水側)
自然ふれあい情報館
○清水坂公園・自然ふれあい情報館
東京都北区十条仲原4-2-1、月休、03-3908-0804
自然博物館 について
☆北区を南北に走る武蔵野台地の崖地を利用した立体的で変化に富んだ公園です。 緑の中をすべりぬけていくようなダイナミックな長さ52mのローラー式すべり台があります。
自然ふれあい情報館は清水壕公館内にあり、身近な生きものを紹介する展示や、昆虫・植物・野鳥観察会を開いています。 併設の自然塩では観察力メラで自然を観察することができます。
☆十条..
木曽呂の富士塚
○木曽呂富士塚・木曽呂浅間
川口市大字東内野594-6ほか
寛政十二年丸参講信者蓮見知重が築造、胎内めぐりの穴が残る。 古くは頂上部分には火口を模した穴があったといわれる。
※頂上では御鉢巡り・裾では胎内潜りができた。
☆木曽呂の富士塚(木曽呂浅間・金崎富士)
この富士塚は、寛政12年に富士講の一派、丸参講の信者の発願により築造されたものである。 高さは5.4m・直径約20mで塚全体が盛土で築かれている。 頂上には火口が掘ってあり、かつて..
不動の滝
○不動の滝
神瀧山清龍寺不動院@和光市白子2-15-47、048-461-2116
平安時代初期、天台宗高僧慈覚大師円仁の創建といわれる。
江戸時代に自然の滝(湧水)を利用して修行場がつくらた。 宝暦六年滝壺に石段がとりつけられ、文政八年石垣がつくられた。
滝 について
☆熊野様の池
古くこの地に竜夫婦が住んでいた。 ある時夫婦げんかをし、一方の竜が 石神井三宝池に逃げてしまったともいわれる。 神聖な滝としてあがめられ、雨乞い・修行の場となった。..
羽根倉富士嶽
羽根倉富士嶽(富士塚)・羽根倉浅間神社
志木市上宗岡4-700
明治時代・高さ約5m・直径約17m・移築2回・平成24年修繕改修
建久四年源頼朝が富士裾野で巻狩りをした際、宗岡里人が多数勢子として招集されたのを記として、大野の地に祠を建て・富士浅間社を祀った。 長禄年間荒川洪水で祠が羽根倉に流され、その地に社殿を建てた。 明治五年~十三年、境内に富士塚を築いたが、昭和初期荒川改修のため蓮田に遷座、1973年県道開通により現在の地に移転、富士塚も移築された。
..見沼通船堀
見沼通船堀
さいたま市緑区大間木・山口新田
川口市東内野
尾間木通船堀
○木曽呂の富士塚
川口市大字東内野594-6ほか
この富士塚は、寛政12年(1800)に富士講の一派、丸参講の信者の発願により築造されたものである。高さは5.4m、直径約20mで、塚全体が盛土で築かれている。頂上には火口が掘ってあり、かつては胎内くぐりの穴も設けられていた。また、富士塚ならびに周囲には、丸参講により造立された石造物が多く..
富士見村伝説(勢多郡富士見村、現前橋市)
○大沼の主は大きな緋鯉、五十年毎に人身御供が必要。
○覚満法師が、法華経力をもって赤城沼に入水した赤城姫を竜神の座に上げた。(覚満淵)
○唐人が船でやってきたがもう上流に行かれないので引き返したのが、石井の船返し。 一休みしたところが、漆窪の唐人貝戸。
○弘法大師が鉈で薬師如来を彫ったのが穴薬師。
○小沢・金剛寺が火事になったとき、不動様が庭の木に登って避難したが、魂は石井に行ってしまい抜け殻だった。
○漆窪の薬師様を、馬に乗ったまま通ると落馬し・帽子をかぶったまま通ると飛ばされた。
○..